『たそがれの女心』マックス・オフュルス
━ 回転と変容に魅せられて①
2024年11月よりパリでマックス・オフュルスのレトロスペクティブがはじまり、いくつかのミニシアターにて『明日はない』(1939)、『快楽』(1952)、『たそがれの女心』(1953)がリストア版で公開された。どれもオフュルスの傑作ともいえる作品で、遺作となった『歴史は女で作られる』(1955)から70年経ったいまでも色褪せることなく、何度見ても映像を見る喜びと発見を私たちにもたらしてくれる。そんな彼の映画をスクリーン上で再び味わうことのできるまたとない機会である。今回はその中で『たそがれの女心』の映像を分析しながら、少しでもオフュルスの魅力に触れられたらと思う。
synopsis
貴婦人のルイーズは浪費家で借金を抱えており、将軍の夫から結婚記念にもらったダイヤの耳飾りを質屋に売り払ってしまう。その耳飾りは場所を変えながらさまざまな人の手に渡り、大使のドナティ男爵が偶然それを手に入れる。ルイーズはドナティ男爵と駅ですれ違ったあと、馬車の帰路や舞踏会で再会し、ふたりはしだいに惹かれ合っていく。彼はかつてルイーズのものであった耳飾りを彼女に贈ると、その耳飾りはさらにふたりの運命を翻弄する。ルイーズは夫に内密で浮気をすることに躊躇うものの、ドナティ男爵への愛を抑えることができず…。
オフュルスの映画といえば、社交界あるいは夜の世界で働く女性たちを題材としていることが多いが、その姿は男性主権社会や家庭に縛られるだけの女性像とは少し異なる。オフュルスの女性たちは社会的地位や立場による制約を受けながらも、自分の欲望を捨てることなく、自身の信念を貫きながら愛する人を激しく求め、あるいは愛ゆえに拒絶したりもする。『たそがれの女心』もそんな恋愛模様が色濃く映し出された物語である。
ただ実際に映像を目にすれば、それが単にメロドラマを描いただけの作品でないことは明白である。貴族たちの集う舞踏会の絢爛豪華なセット、しとやかなドレスやアクセサリーを身に付けながらも力強さを纏う女性、その女性を見つめるカメラのまなざし、観客を焦らすことなく次々とシーンを展開させるテンポのよさ、鏡や窓といったフレームを巧みに使った演出など、物語の展開よりもむしろひとつひとつのイメージを構成する細部やリズムにこそ、オフュルスの表現の豊かさを見出すことができる。
だがそのような美学的技巧以上に私たちの心を惹くのは、上品でありながらも少女のように可憐に歩き回るルイーズの足取りや、舞踏会で男女が踊るワルツ、人物を追いかける流麗なカメラワークといった、目まぐるしく変化する回転運動にあるのではないだろうか。以下ではその回転運動について考察したいと思う。
回転について①
『たそがれの女心』にはさまざまな回転運動がちりばめられている。それはこの映画全体を織りなす重要なモチーフであるだけでなく、登場人物たちを揺り動かす運命や心情の変化も、この回転運動に支えられているといっても過言ではない。
この映画の回転運動は大きく3つの要素にわけることができる。1つ目に耳飾りの流通、2つ目は人物のダンスや移動、そして3つ目はカメラの運動である。
まずは「耳飾り」について。かつて夫から贈られた耳飾りは、いうまでもなくこの映画でもっとも重要なキーのひとつであり、ルイーズの、はたまたその周りの男性たちの運命をも翻弄していく。この第2の主人公ともいえるアクセサリーは、さまざまな場所へ運ばれながら循環してく。まず耳飾りはルイーズによって質屋に売られるが、真相を知った夫のアンドレがそれを買い戻し、彼はパリを発つ愛人にそれをプレゼントする。耳飾りは愛人とともにコンスタンチノープルへ旅立つが、愛人が賭博に負けたために耳飾りを売り、ドナティ男爵が質屋で手に入れる。そして彼はそれが元々ルイーズのものだったとも知らずに、その耳飾りを彼女にプレゼントするのだ。運命と偶然を象徴するかのように、耳飾りは人から人の手を渡り、持ち主を変えながらルイーズのもとに戻る。しかも奇妙にも、耳飾りはその後も何度か彼女の手を離れるが、その度に彼女のもとに返ってくるのだ。耳飾りはルイーズを起点として、物語をなぞりながら円環を描きつづけるのである。
第2の回転の軸は人物の運動である。この映画における人物の回転運動といえばダンスであり、ルイーズとドナティ男爵がワルツを踊りつづける場面は誰もが深く印象に残るだろう。はじめは「ただの友人」として振る舞うふたりだったが、舞踏会で会う度にしだいに惹かれあっていき、来る日も来る日も踊りつづけ、しまいには合奏団が解散しても踊ることを止めない。ふたりのワルツはカメラによって長回しで捉えられ、日付が変わるとふたりの衣装も変わるが、ダンスのショット1が連鎖的に続いているため、ふたりはまるで休みなく踊っているかのように表現される。 このダンスのシーンでルイーズとドナティ男爵が徐々に想いを寄せ合っていることは誰が見ても明らかだが、その理由や過程が詳細に描写されることはない。ふたりはただ共に回転し続けているだけなのだ。この映画あるいはオフュルスにとっては、ふたりの人間が恋に落ち合う明確な理由など何も重要ではなく、まるでその純粋な運動によって心的距離を縮めていたのだとでも言わんばかりである。
また映画批評家である蓮實重彦は、このダンスシーンが映画史において極めて重要なシーンであると指摘しつつ、またそれを賞賛すべき点について次のように語っている。
ダンスというひと組の男女によって演じられる微妙な運動こそ、映画にとって不可欠ともいうべき男性と女性との協力作業でもあることが、きわめて重要なものだからでもあります。
(…)
しかるべき年齢の男女の仲の深まりを映画で表現するには、この緩やかなダンスというリズムしか存在していないというかのように、オフュルスは二人の息の合ったステップをなだらかにキャメラで追い続けているのです。つまり、それは物語の枠を軽々と越えて、作品の一部におさまることさえどこかで回避するかのように、映画そのものの真実とも言うべきものに、見ている者をふと向かいあわせてしまうのです。2
彼にとってこのダンスシーンが優れた映画表現であるとする理由は、まず抱擁や接吻といった直接的な行為によってではなく、ふたりのダンスやカメラの運動感によって男女のロマンスを成立させてしまうこと、そしてこの場面がもはや物語の筋書きに関係ないにもかかわらず、映像そのものによって観客を魅了してしまうことにある。

ちなみにもうひとつの見事な回転運動のシーンも見てみよう。質屋の店主の息子が2階から1階へ小さな螺旋階段を下りるときの一場面である。息子は店主に言われたモノを2階から持ってこようとするが、彼が階段を下りようとすると店主が「これも持ってきてくれ」と何度も持ち物を追加するので、彼はそのたびに螺旋階段を下りたり上がったりをくり返さなければならない。このシーンはちょっとしたギャグでありつつも、なぜだかそんな他愛のない運動に心を動かされてしまう。何度もモノを取りに戻るという意図しない喜劇的な行動が、螺旋階段で展開される反復運動を導くのだ。
「私はセットから演出を設定するのではなく、演出に合わせてセットを構成します。3」オフュルスがそう証言しているように、おそらくこのシーンにおける螺旋階段も、回転運動の表現のための舞台装置と言えるかもしれない。

しかしさらに見逃してはならないのは、その少年がようやく階段を下りたあと、カメラはすばやくそのまま左へ半回りし、1階にいる少年と店主を俯瞰で捉える瞬間である。このように人物の回転運動に加えて、カメラ自体も回るように移動するのだ。そしてまさにこのカメラの運動こそが、第3の回転の軸となる要素である。
後編では第3の回転について、そしてそれらの回転がどう発展していくのか考えてみたい。
- ショット:カメラを回してから止めるまでの映像単位を指す。カットと呼ばれることもある。 ↩︎
- 蓮實重彦『ショットとは何か』、講談社、2022年、P.226、P.233 ↩︎
- « Je n’installe jamais une scène dans un décor, mais je fais construire le décor d’après la scène. » (« Max Ophüls par lui-même »(彼自身によるマックス・オフュルス), 1895. Mille huit cent quatre-vingt-quinze, 34-35 | 2001, p. 321-325)
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