Jeux de mots

今月のことばあそび

毎月変わるお題と文字数に合わせて、自由に自己表現を楽しむ場所

日常のアポテオーズ?

Kazu Fujimoto

「apothéose」とは聞き慣れない単語だ。本来は「古代の英雄が神々の内に加えられること」、つまり「神格化」やそれを祝うセレモニー「列神式」を意味する。ロベールのフランス語史辞典によれば、ラテン語の「apothosis」に由来し、さらにその元を辿ればギリシャ語の「apoteôsis」に行き着く。「apo-」が「遠く離れ、どこかに達すること」を意味し、「theos」は「神々」を指す。

この語は、後々、世俗の場面でも使われるようになり、誰かの特別な栄光を表すようにもなった。19世紀に出版されたラルース辞典を見ると、「ホメロスのアポテオーズ」やら「ナポレオンのアポテオーズ」など、様々な偉人の栄光が紹介されている。現在ではこの語は、比喩的な意味でもっと広く用いられている。例えば演劇のフィナーレや、素晴らしい光景に接したときにも「アポテオーズ」と言われる。

こんな風に見ると、「アポテオーズ」は徐々に地上の出来事に当てはめられるようになったとも言えるだろう。英雄が神々に加わる栄光は、世間一般で言われる栄誉に取って代わる。天上で催されるセレモニーは、夜な夜な劇場で見られる光景に代わる。日常の出来事を天上の出来事に喩えるなんて、冒涜だろうか。

もっとも、ギリシャの神々の存在について、私たちが古代の人々と同じような確信を持っているわけではない。だから「アポテオーズ」を天上の出来事として考えると、やはりピンとこない。私としては、「アポテオーズ」を天上に追い求めるよりは、むしろ日常からすくい上げることを歓迎したい。直に目で見える身の回りのモノの中に、本来この語が持っていた神々しい雰囲気の断片を見出すことだ。

毎日中天に達する太陽だって、私の地元のキラキラした海だって、「日常のアポテオーズ」だ。これを初めてやってのけたのは、印象派だろう。彼ら・彼女らの素晴らしい絵画を見ていると、神話に匹敵する神々しい雰囲気が日常にゴロゴロと転がっているのがよく分かる。


ベールに包まれたアポテオーズ

Miyako Ebata

フランス人との日常会話でも滅多に登場しないこの「アポテオーズ apothéose 」という言葉。フランス人の同僚曰く、パレードやショーなどの華やかなフィナーレに対してこの言葉を叫ぶことがあるそう。これが現代での使われ方であり、文芸の文脈においても「クライマックス」や「絶頂期」として使われることが多い。

毎回お題の言葉から少し外れて連想した内容に帰着していたので、今回は「アポテオーズ」の意味から「クライマックス」について触れることにした。ついでに、多くの学者にクライマックスが曖昧だと考えられている、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》を取り上げることにする。これは、半人半獣である牧神が、水の精たちとの官能的な夢想にふけり高揚する姿を描写した作品である。音楽の面ではいくつもの楽器が重なり音量も迫力のある部分がクライマックスと捉えられることが多い。牧神が高揚すると思われる描写は、音と楽器が揺れる波のように徐々に拡大する表現に見られるだろう。一瞬の高揚は何度も訪れるようだが、一方で官能的な絶頂は、象徴的なフルートを中心に弦楽器やハープの音色に重なってはっきりと見えなくなる。ゆえに、この曲のクライマックスを探すのは雲を掴むようなものなのかもしれない。曲全体を通しても、靄がかかった白い光が牧神がいる場を包み、たゆたう印象なのだ。掴めそうで掴めないこのもどかしさにも似た美しさに、何度もこの作品を体験することになるのだろう。

クライマックス、すなわち「アポテオーズ」という名の瞬間は、誰にも同じ姿では降りてこない。それも19世紀末から20世紀初頭に活躍した作曲家の特徴であると言えるだろう。時には私たちに委ねられたアポテオーズを探す旅も楽しい。

お題に真っ直ぐに向き合ってみようと試みたがいつものように天鬼的な態度になってしまったかもしれない。

《牧神の午後への前奏曲 Prélude à l’après-midi d’un faune》(1894年)はマラルメの詩『牧神の午後』をドビュッシーが音楽で表現した作品。ドビュッシーの他の多くの作品にも見られるように前奏曲として独立した作品である。バレエでは当時ニジンスキーの官能的な振付がセンセーショナルを巻き起こした。


神になりたい!

Mio Akamatsu

神々の仲間入りをするためには、いくつかの条件がある。その一つとして「自身の欲望に素直」が挙げられる。欲望と創造が渦巻くギリシア神話の中では。

光の神アポロンの話をしよう。
アポロンは恋愛に興味がないダフネに恋をするが、ダフネはアポロンを愛さなかった。しつこく迫られた彼女は、父に頼んで月桂樹に姿を変える。目の前で欲しかったものを奪われた悲しみなんてもう、想像しただけで胃が切れそう。アポロンはその月桂樹で冠を作り、枯れないように常緑樹にさせた。さらに「優れた者には月桂樹の冠を与える」という文化も創る。これが神業、失恋さえも創造の力に変えてしまうのだ。

一方で、神の御力を借りて欲望を叶えた芸術家もいる。キプロス島の王・ピグマリオンは理想の女性を彫刻として創り上げ、彼は自身の作品に恋をする。名前はガラテア。芸術家の一途な恋に心打たれた女神アフロディテは、その彫刻に命を吹き込み、人間に変えた。

この場面を美しく描いているのは、ジャン=レオン・ジェローム《ピグマリオン》(1890年、メトロポリタン美術館所蔵*)である。上半身は血液が通う人間だが、腰より下はまだ白い大理石。今まさに彫刻から人間に変化している瞬間である。そんなガラテアを見上げながら、思わず腰に手を回すピグマリオン。欲しくて欲しくて欲しくてたまらなくて、ようやく手に入れた。その瞬間は快楽の絶頂だろう。そして二人の背後には、神の光が描かれている。

芸術家には自分自身の理想や最高到達点を表現する力を持っている。そして、そのピュアな欲望に神がそこへ手を差し伸べる。つまりは人間が自分の脳内の理想を表現し続けることは、神に近づく行為でもあるのかもしれない。

だが「神になりたい!」と漠然とぬるいことを言っている時点で、私はまだ人間の域から出ることを赦されていないのだろう。

*ジャン=レオン・ジェローム《ピグマリオン》1890年、メトロポリタン美術館所蔵、ニューヨーク
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436483


闇のなかの小さな讃美

Haruna Takano

ある日の夏の雨。部屋の鬱屈とした空気に耐えられず外に出る。向かう先はジャン=ジャック・エンネル美術館*。現在住むパリのアパートから10分ほど歩いた場所にある。

去年初めてここを訪れてから、私はすっかりエンネルの絵画に魅了されてしまった。彼は印象派が花を咲かせた時代の裏側で、あくまでも伝統的な手法を重んじる画家として活動していた。彼もまた他のアカデミー会員の画家と同じように多くの宗教画を描いたが、その人物や背景描写はどこか陰を纏っていて、華々しく神格化されているとは言い難い。しかし私はそこに小さなアポテオーズを発見したような気がする。

私のお気に入りは、2階の赤の間にある《聖セバスティアヌス》(1888年)**である。まず目に入るのは、薄暗い画面に青白く浮き上がる聖セバスティアヌスの裸体。といってもそこにいるのは聖人の姿というよりも、まるで正気を失った青年だ。輪郭の縁取りは朧げで、伏し目がちな顔には暗い影がかかっているため、表情を読み取ることは難しい。また画面の左上を見ると、黒いマントを羽織った2人の人物がひっそりと佇んでいる。

私がもっとも惹かれたのは、彼の右腕である。肘から下の部分は周囲の闇に呑まれ完全に消失している。もはや右腕が欠損しているかのような危うさがあり、微かな官能性すら感じてしまう。

この作品に初めて出逢ったとき、私はなぜか静かな高揚感を覚え、数分ものあいだ目を離すことができなかった。この内側からじわじわと湧き上がる高鳴りをなんと形容したらよいだろう。

私がそこに見つけたのは太陽のごとくギラギラとした神々しさではなく、月や星の光が暗闇からふっと現れる小さくも眩しい讃美のようなもの。それをひとまず「星のアポテオーズ」とでも名付けておこうか。

外に出ると雨は上がり、夕方の日差しが出始めていた。パリの夏の太陽は長い。夜の光が現れるまで、まだしばらく待たねばならないだろう。

* ジャン=ジャック・エンネル美術館(Musée national Jean-Jacques Henner)パリの17区、ヴィリエ通りに位置する。もともと画家のギヨーム・デュビュッフェの邸宅兼アトリエであったが、エンネルの死後甥の妻が買い取り、1923年にジャン=ジャック・エンネル美術館として開館。https://musee-henner.fr/
ジャン=ジャック・エンネル(Jean-Jacques Henner、1829〜1905年)
アルザス地方生まれ。ストラスブールで絵の勉強に励み、エコール・デ・ボザール(フランス国立美術学校)に進む。
後にイタリアへ留学し、イタリア・ルネサンス絵画の影響を色濃く受ける。

**《聖セバスティアヌス》(Saint Sébastien、1888年)