【連載】:わずかなものの詩学
第2回 シャルル・クロ「燻製にしん」

はじめに
フランス語に「finir en queue de poisson」という慣用句がある。直訳すれば「魚の尾で終わる」とも読めるが、意味は「突然、残念な終わり方をする、期待外れの終わり方をする」といった失望的状況を表す。訳しづらいが「尻すぼみになる」や「竜頭蛇尾で終わる」などの訳語が当てられることもある。
「魚」と聞いて、私がぱっと思いついたのは、シャルル・クロという詩人の作品「燻製にしん(Le Hareng saur)」である1。私が学部生のときに嬉々として読んだ『フランス名詩選』にも収録されているから、知っている読者もいるかもしれない2。燻製されたにしんという、日常の食べ物を題材にした作品である。ところが、にしんとは、詩のテーマとしてはいささか物足りなく、文字どおり「魚の尾」のようなものでもある。まずは本文と筆者による翻訳を記しておこう。
Le Hareng saur
Il était un grand mur blanc – nu, nu, nu,
Contre le mur une échelle – haute, haute, haute,
Et, par terre, un hareng saur – sec, sec, sec.
Il vient, tenant dans ses mains – sales, sales, sales,
Un marteau lourd, un grand clou – pointu, pointu, pointu,
Un peloton de ficelle – gros, gros, gros.
Alors il monte à l’échelle – haute, haute, haute,
Et plante le clou pointu – toc, toc, toc,
Tout en haut du grand mur blanc – nu, nu, nu.
Il laisse aller le marteau – qui tombe, tombe, tombe,
Attache au clou la ficelle – longue, longue, longue,
Et, au bout, le hareng saur – sec, sec, sec.
Il redescend de l’échelle – haute, haute, haute,
L’emporte avec le marteau – lourd, lourd, lourd,
Et puis, il s’en va ailleurs, – loin, loin, loin.
Et, depuis, le hareng saur – sec, sec, sec,
Au bout de cette ficelle – longue, longue, longue,
Très lentement se balance – toujours, toujours, toujours.
J’ai composé cette histoire, – simple, simple, simple,
Pour mettre en fureur les gens – graves, graves, graves,
Et amuser les enfants – petits, petits, petits3.
燻製にしん
大きな白い、むき出しの、むき出しの、むき出しの壁
壁には、高い、高い、高い梯子がかかり、
そして、地面には、乾いた、乾いた、乾いた燻製にしん。
彼がやってきて、その汚い、汚い、汚い手に持っているのは、
ずっしりとした金槌と、先の尖った、尖った、尖った大きな釘、
それから巨大な、巨大な、巨大な紐玉。
そこで彼は、高い、高い、高い梯子を登り、
尖った釘を、かん、かん、かん、と打ち付ける、
大きな白い、むき出しの、むき出しの、むき出しの壁の高いところに。
彼は金槌を放って、落ちる、落ちる、落ちる、
釘に、長い、長い、長い紐を結びつけ、
そして紐の先に、乾いた、乾いた、乾いた燻製にしんをくくる。
彼は、高い、高い、高い、梯子を降りて、
梯子と、ずっしりとした、ずっしりとした、ずっしりとした金槌を持ち去り
そして、遠くへ、遠くへ、遠くへ、どこかへ行ってしまう。
以来、乾いた、乾いた、乾いた燻製にしんは、
この長い、長い、長い紐の先で、
とてもゆっくりと、ずっと、ずっと、ずっと揺れている。
私がこの、単純な、単純な、単純な話を作ったのは、
真面目な、真面目な、真面目な人々を怒らせるため、
そして、小さな、小さな、小さな子どもたちを面白がらせるため。
とある人物がやってきて、燻製にしんを吊るして去ってゆく…。内容はしごく「単純」であり、ともすればナンセンスとも言える。それに魚という題材は詩のジャンルにはあまり馴染みがないし、食べ物の燻製にしんだってことさら高級な食材でもない。伝統的なテーマとして、そこに象徴的な意味合いを見出すことは難しいだろう。さらに、語り手によれば、この作品を書いたのは「子どもたちを面白がらせるため」だという。
だから「燻製にしん」は、意味も希薄で、象徴性にも乏しい、そして目的も遊戯的である。真面目な頭で理解しようとしても、肩透かしをくらってしまうかのように、この詩は取るに足らないものを正にそのようなものとして差し出すような作品である。先の慣用句をもじって言えば、この詩は「魚の尾で終わる」どころか、「魚の尾で始まり、魚の尾で終わる」ような詩とも言えるかもしれない。
しかし、「燻製にしん」は本当に無意味なものを陳列するだけの詩なのだろうか。ある面ではそれは正しいかもしれないが、ここでは、無意味に思われる「燻製にしん」という作品は、シャルル・クロや彼の仲間たちによる遊びを通して、別様に立ち上がってくることを示してみたい。
言葉の魔力?
なんとか意味が通じるように努めたため、翻訳にはうまく反映させることはできなかったが、この詩の大きな特徴は、なんといっても、各文の末尾の語が三度ずつ規則正しく繰り返されることである。「壁」は「むき出しの、むき出しの、むき出しの(nu, nu, nu,)…」といったように繰り返されるわけだが、しかしその語はどう見ても繰り返されるほど重要な意味を持っているようには思われない。
しかし、奇抜なリズムというのはそれだけで何かしらの印象をもたらす。たとえば呪いなどがそうである。ある特別な信仰のもとでは、呪術的な言葉には、意味を超えた超自然的なものの力が宿ると信じられている。たとえば、宗教的なものでなくとも、身近なもので「痛いの痛いの飛んでいけ」などが思い出される。呪いは信仰とは切り離せないが、他方で、「アブラカタブラ」「ちちんぷいぷいのぷい」などのフレーズから魔法のような何かを予感するとすれば、それは奇抜なリズムを持った言葉そのものの印象にも依拠するだろう。
19世紀の詩には、呪文のような言葉の使い方を開拓する作品がしばしば見受けられる。ここでは深入りしないが、エドガー・ポーの「Nevermore」やマラルメの「Aboli bibelot d’inanité sonore」、ランボーの「A, noir ; E, blanc ; I rouge ; U, vert ; O, bleu : voyelles」などが挙げられるだろう4。意味はさほど詰め込まれていないが、それが持つ独特のリズム、反復の印象そのものに何か別のものの兆しが予感される。
呪いと近代詩の結びつきを研究したパトリック・テリオは、この呪術的様相をもたらす言葉の規則として、強いリズム性や意味の不透明性(理解の難しさ)などを挙げている5。それは確かに「燻製にしん」にも当てはめられる。文末の三回の反復が強いリズム性を持つのは明らかだが、それに加え、詩全体に通底する行為の謎が意味の不透明性をもたせるともいえる。
もちろんそれだけで呪文のようであるとまでは言えないが、この詩が含み持つパフォーマンス性が、それらの効果を補強する。ところで、この詩が初めて発表されたときのタイトルは、「燻製にしん」ではなく「小さな子どもたちのためのリズミカルなコント」であった6。つまり声に出して読むパフォーマンスを想定した作品であったのだ。おまけに、その時のテクストを見ると丁寧に読み方の指示書きまで記されている。冒頭には「とてもゆっくりと、三回の繰り返しのときは特にゆっくりと、身振りも加えて」とある。また、ところどころに「休止」を置くような指示があるし、最後、人物が立ち去り揺れるにしんの場面に入る前には「もっとゆっくりと、それから声を落として」とある。
このように見ると、「燻製にしん」とは、小唄のように軽快なリズムを想定した詩ではなく、全体としてゆったりと、間延びするように読まれる詩である。どこかもったいぶって、一語一語丁寧におさえて読むやり方は、詩の滑稽さとは裏腹に、まさに言葉が一つ一つ特別な価値を持つような厳粛な印象すら与える。また、文末や結末に向かって減速していくのも、指示された読み方の特徴の一つである。文や詩をすぐには終わらせず、まだ続きがある、その先に何かある、という読者の期待を引き出すように読まれる作品ともいえる。
言わば「燻製にしん」という詩は無意味な行為を無意味なものとして語りながらも、語感に内在する印象を引き出すことで、何か重要な事柄を語っているように見せかける詩なのだ。それでもこの詩はどこまでいっても「子どもたちを面白がらせる」ために作られたものであるから、結局は魚をめぐって大事な何かを語っているわけでも、何かを隠しているわけでもない。どこまでいっても意味はなく、ただ厳粛な意味をふるまうお遊びなのである。
「燻製にしん」の波及
さて、今度は視点を作品の外へとずらしたい。なぜなら「燻製にしん」とは、それ自体で終わらず、他者を巻き込んでいく作品だからだ。
「燻製にしん」が内部にパフォーマンス性を秘めていることはすでに述べたが、実際に俳優のコクラン・カデは、シャルル・クロが「燻製にしん」をサロンで朗読していたのを見てから、自分でも舞台で上演するようになった。以来、「燻製にしん」は大きな反響を呼び、カデはこのような経験をもとに、「モノローグ」という独り語りの舞台ジャンルを確立していった。
アルフォンス・アレは、当時早くも、「燻製にしん」の英訳を試みている。タイトルは「The Salt Herring」とされた。原文とはやや異なるが「He came along holding in his hands dirty, dirty, dirty…」と始まり、末尾のリズムもきちんと反映されている7。作曲家のエルネスト・カバネールは「燻製にしん」に節をつけた。壁ににしんを吊るすシャルル・クロのカリカチュアまで描かれた。さらには、モーパッサンがフローベールに送った手紙にも「燻製にしん」の影が見られる。
Je vois des choses farces, farces, farces, et d’autres qui sont tristes, tristes, tristes, en somme, tout le monde est bête, bête, bête, ici comme ailleurs8.
ぼくは、可笑しな、可笑しな、可笑しなものや、悲しい、悲しい、悲しいものを見る。要するに、みんな愚かで、愚かで、愚かなんだ。ここでもあそこでも。
このような二次創作は、現在でも続いている。YouTubeで「Hareng saur」と検索してみて欲しい。いくつか映像作品が見つかるだろう。
「燻製にしん」は、当時多くの作家や芸術家の知るところとなり、その結果、様々なヴァリエーションが生み出されていった。もちろん、比較的簡単な三回の繰り返しや、にしんという分かりやすいテーマなど、真似したくなるような要素が「燻製にしん」の作品自体に内在するということもある。
しかし着目したいのは、いかにしてこのようなムーブメントが起こったかということではなく、それがもたらした社会的なインパクトの方である。言わば「燻製にしん」とは、ほとんど無意味な作品で、みんなが真似できるほど簡単な作品であるが、みんなが真似するほどには重要な作品であるのだ。言わば、ここに、今度は作品内部から立ち上がる意味ではなく、作品外で作られた意味が見出されるだろう。つまり「燻製にしん」は他者を巻き込みながら、社会に向けて何か重要な意味があるようにふるまっていくのである。
おわりに
今回は「燻製にしん」を取り上げたが、それは無意味をただ広げる作品ではない、というのが言いたかったことだ。連載のテーマ「わずかなものの詩学」に合わせて、「魚の尾」のように取るに足らないものを陳列しながら、別様に意味が立ち上がることを読み取ってきたつもりだ。たしかに内容や魚から真面目な意味や象徴性を読み取ることは難しい。そんな読み方をしようとしても、結局「燻製にしん」は私たちをするりと交わし、真面目な私たちを怒らせるだろう。そうではなく、ここで繰り広げられているのは、音の遊びであり、仲間たちによる集団的な遊びであり、そのような間接的なやり方によって意味や価値をふるまおうとするのである。
今回はある言葉遊びからはじめたので、最後も言葉遊びで締めることにしたい。よく言われるのは「L’Hareng saur(燻製にしん)」が「L’art en sort(芸術がそこから生じる)」という表現を音の中に潜在しているということだ9。無意味な作品であるのに、あるいは無意味であるからこそ、そこに何か芸術的なものの兆しが見出されるということだ。もちろん「en(そこから)」の解釈はまだまだ開かれているはずだから、読者の側でもっと想像を膨らませて欲しい。
- シャルル・クロ(Charles Cros, 1842-1888)は、詩人、劇作家ならびに発明家でもあった異例の人物である。エジソンの影に隠れているが、蓄音機の構想でも知られている。彼の文学活動は、特に19世紀後半にパリのあちこちで開かれた文学サークルやサロンの中で花開いた。クロが出入りしていたサークルは、放浪やその日暮らしの詩人が多く、礼儀の良い者ばかりではなかったが、その中では笑いやウィットに富んだ多くの作品が生み出された。クロは、モンマルトルのカフェ「シャ・ノワール」の流行にも貢献している。
↩︎ - 安藤元雄、入沢康夫、渋沢孝輔編『フランス名詩選』岩波文庫、1998年。
↩︎ - Charles Cros, « Le Hareng saur », Le Coffret de santal. Le Collier de griffes, éd. Louis Forestier, Paris, Garnier-Flammarion, 1979, p. 158.
↩︎ - エドガー・ポーの詩「大鴉」では、恋人を失った主人公の部屋に一羽の鴉が訪れる。そして、繰り返し、詩人に向かって「Nevermore(二度とない)」と鳴く。「Aboli bibelot d’inanité sonore」とは、ステファヌ・マラルメの通称「-yxのソネ」と呼ばれる作品の一節である。カタカナで「アブロビブロディナニテソノール」と読めるが、その響きの良さから記憶している人も多い。最後の例はアルチュール・ランボーの「母音」と呼ばれる作品の冒頭句である。詩人は各母音に色を当てはめているが、謎は多く様々な解釈を生む作品である。
↩︎ - Patrick Thériault, « Une littérature ‘‘comme incantatoire’’. Le cas exemplaire de la modernité symboliste », Patrick Thériault (dir.), Une littérature « comme incantatoire » : aspects et échos de l’incantation en littérature (XIXe-XXIe siècle), Toronto, Presses françaises de l’Université de Toronto, 2018, p. 9-34.
↩︎ - Charles Cros, « Conte rythmé pour les petits enfants », La Renaissance littéraire et artistique, 25 mai 1872, p. 37.
↩︎ - Alphonse Allais, « The song of ‘‘The Salt Herring’’ », Par les bois du Djinn. Parle et bois du gin. Poésies complètes, éd. François Caradec, Paris, Gallimard, coll. « Poésie », 2006, p. 295.
↩︎ - Lettre de Guy de Maupassant à Gustave Flaubert, 26 décembre 1878 ; Gustave Flaubert, Guy de Maupassant, Correspondance (1873-1880), éd. Sylvain Kerandoux, Rennes, La Part Commune, 2009, p. 138.
↩︎ - 「L’hareng saur(燻製にしん)」と「l’art en sort(芸術がそこから生まれる)」は、ともにカタカナで記すと「ラランソール」と読まれる。ただ少し込み入った話をすると「Hareng」の「H」は有音のhであるため、実際には「l’hareng saur」のように定冠詞にアポストロフがつく形になることはない。この駄洒落から「燻製にしん」の波及効果を論じたものとしては、以下のものを参照されたい。Daniel Grojnowski, « Du ”Hareng saur” à l’art en sort ou le sort de l’art. Cros, Huysmans, Allais », Poétique, n° 188, 2000, p. 211-229.
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