
【連載】:わずかなものの詩学
第1回 アルフォンス・アレ「ジンの森を抜けるなら…」
はじめに
ジャン=リュック・ゴダールの映画『勝手にしやがれ』で印象的なのは、ジャン=ポール・ベルモンド扮する主人公ミシェルの饒舌ぶりだ。車の中でも、通りでも、プライベートな空間でもよく喋る。しかしそんな彼も、最後には警官に背中を撃たれ、都会のど真ん中でばったりと倒れてしまう。映画のラストを暗示するように、原題には「À bout de souffle」、つまりは「息切れ」「息も絶え絶え」を意味する慣用句があてられている。息が切れると動けなくなるが、言葉も続かなくなる。饒舌だった彼も、最後には「最低だ」というごくわずかな捨て台詞しか残せない。それも肝心の恋人にはぴんとこなかったようだ。虚しいが突き刺さる言葉だ。
息がつきることは、作家にとっては別の意味でも困ることになる。創作に欠かせない「霊感(inspiration)」とは本来「吐息」のことだ。ミューズの「息」を吹きかけられて詩人は霊感を授かると言われてきたからだ。天から授かった自らの才能を信じられる者は、内側からほとばしる言葉をそのまま吐き出し、雄弁で、長い文がすらすらと書ける。反対に、女神から見放されたか、またはその存在を疑い始めた者は、何か別のものに頼らなければならない。
そんな「息切れ」とともに詩人が向かうのは、短さ、小ささ、はかなさ、慎ましさ、無意味さ、軽さ、沈黙ではないだろうか。映画の若者の言葉のように、ごくわずかなものだけが残る。しかし、詩人はこんなわずかな言葉の中に、それ以上の何かを込めようとする。言葉の中に含まれる深さが、作家の才能にとってかわるのかもしれない。そのような観点から本連載では、詩人が残したほとんど何でもないような言葉のあいだを「遊歩(flâner)」していく。そして、ごくわずかでありながら、それ以上の何かを含むかもしれないものについて考えを巡らせたい。
第1回 アルフォンス・アレ「ジンの森を抜けるなら…」
1882年、モンマルトルに「シャ・ノワール」という名のカフェが開かれた。毎晩のように、詩の朗読、シャンソン、影絵、一人芝居が行われた。シャ・ノワールは同名の機関誌も発行し、そこではカフェの陽気な雰囲気の中で書かれた記事、詩、コントが数多く掲載された。パリの場末に集う彼らは伝統など重んじない。芸術など取るに足らないといった態度で、笑いに満ちた芸術活動を行っていた。だがこの自由な精神のおかげで、時おり何か新しいもの、実験めいたものがたくさん生み出された。
さて、「シャ・ノワール」の芸術運動を推進した内の一人に、アルフォンス・アレ(Alphonse Allais, 1854-1905)という作家がいる。教科書やアンソロジーではあまり登場しないマイナーな作家だ。この人はとても変わった人物で、可笑しな作品を多く残している。他人の名を騙って記事を書くようないたずらや(はなはだ迷惑な話だ)、びっくりするオチをつけたユーモラスなコントなどで有名だ 1。
第1回は、そんなアレの遊び心がかいま見られる軽めの詩から始めたい。たった2行だけで作られた詩だ。この詩は、詩のようでいてダジャレ、ダジャレのようでいて詩、という奇妙なループに読者をおとしいれる。まずは、ここに全文引用しよう。2行の詩の前後には、その意味を補足する文が付け加えられている。
Conseils à un voyageur timoré qui s’apprêtait à travers une forêt hantée par des êtres surnaturels.
Par les bois du Djinn, où s’entasse de l’effroi,
Parle et bois de Gin ou cent tasses de lait froid.
(Le lait absorbé froid, en grande quantité, est bien connu pour donner du courage aux plus pusillanimes 2.)
超自然的な生き物が住む森を横切ろうとしている臆病な旅人への忠告。
恐怖がひしめく、ジンの森を抜けるなら、
おしゃべりしながら、ジンか100杯の冷たいミルクを飲みなさい。
(冷たいミルクを大量に飲むことは、臆病な人たちを勇気づけるとよく言われている。)
すでに気づいた人もいるだろう。フランス語が分かる人は、ぜひ声に出して読んでみて欲しい。「パルレボワドゥジンウーサンタスドゥレフロワ」 「パルレボワドゥジンウーサンタスドゥレフロワ」。詩は二文がまるまる同じ音を奏でるように書かれているのだ。
ここからまず連想できるのはダジャレだ。しかし、かなり技巧的である。ダジャレでもあまりに秀逸なものは笑えなくなる、というのとも似ている。もう少し込み入った話をすると、この全音一致は脚韻の考えを拡張したものだ。伝統的なフランス詩は、ラップのように韻を踏む。ある文の最後に置かれた語が、別の文の最後に置かれる語と同じ音を響かせるのだ 3。そして、重なる音の数が豊富であれば、優れた脚韻だとされる。しかしアレは、真面目かふざけてか、これを一文全体にまで広げてしまう。一見するとただのダジャレだが、しかしそれは詩の技の延長でもある(もっとも、やりすぎだが)。アレは言う。「尻尾の先から頭のてっぺんまで上質な豚のように、私の詩では最初の音から最後の音まですべて脚韻だ 4」。何でもないおふざけか、あるいは、アレなりの自負の表れなのか。
音の工夫があるのは分かるが、意味はどうだろうか。意味よりも音に合わせて文が作られたのだとしたら、詩に意味など求めても虚しいのではないか。「布団が吹っ飛んだ」の意味を真剣に考える者などいないように。しかし、アレは意味があるのだと言わんばかりに、かなり真面目な体裁で説明を加えている。最初の「超自然的な生き物の住む森を抜けようとする臆病な旅人に送る忠告」は、この詩がどういう種類の文(アドバイス)であるのかを説明する。それから、「(冷たいミルクを大量に飲むことは、臆病な人たちを勇気づけるとよく言われている)」が、このアドバイスを正当化している。しかし詩からは「臆病な者」などという表現は見られないし、説明文は過剰な解釈をしているとも言える。詩は見事に意味をもたせているとも言えるし、無意味な文を何とかこじつけているとも言える。
どっちつかずの調子は、文学的か、非文学的か、という点にも見られる。「ジン」への言及があるが、これはイスラム教に登場する、人に悪さする精霊のことだ。この精霊を登場させた作品として、ヴィクトル・ユゴーの「ジン(Les Djinns)」という有名な詩がある 5。森の中で、ジンの大群に遭遇する幻想的な詩だ。だとすればアレの作品は、のっけから、ある文学的な始まりを予想させる。「恐怖」を意味する「l’effroi」だって、会話では使われない文語なのだから文学的だ。しかし、「超自然的なもの」との遭遇を期待させておきながら、それに続いて出てくるのは、「おしゃべり」、お酒の「ジン」や「ミルク」など、ごくごく日常的なものでしかない。ユゴーの残した立派な「ジン(Djinn)」は、アレの手にかかればお酒の「ジン(Gin)」に生まれ変わってしまうかのようだ。
ダジャレか超技巧か、無意味か意味か、日常か文学的か、このような曖昧さを楽しめるか、という点が、アレの作品を味わう鍵となる(もっと言えば、わずかなものの詩学の鍵とも言える)。詩を真面目に取ろうとすれば、そんな読み方はナンセンスだと肩透かしを食らうようだし、かと言ってこんなのダジャレだ、とも言い切れない。ダニエル・グロジノウスキという研究者は、この時代の文学的ないたずらは、より洗練され、どんどん難しいもの、謎めいたものになっていくと言っている 6。いたずらと真面目のあいだで、アレは果てしなく読者の読みを交わしていく。
- アレのコントを読んでみたい人は、ぜひ山田稔による翻訳書をあたって欲しい(アルフォンス・アレー『悪戯の愉しみ』山田稔訳、みすず書房、2005年)。 ↩︎
- Alphonse Allais, « Sept brefs poèmes », Le Journal, 15 février 1896, p. 5 (repris dans Alphonse Allais, Par les bois du Djinn, parle et bois du gin. Poésies complètes, éd. François Caradec, Paris, Gallimard, coll. « Poésie », 2005, p. 52.). 日本語訳は筆者による。 ↩︎
- 例えば次のマラルメの詩では、下線部が脚韻になっている。脚韻の重なりは多くてもこの程度で、それ以上やると、ダジャレらしくなり詩の品位を下げることにもなりかねない。
Ses purs ongles très haut dédiant leur onyx,
L’Angoisse ce minuit, soutient, lampadophore,
Maint rêve vespéral brûlé par le Phénix
Que ne recueille pas de cinéraire amphore
純らかな爪はその縞瑪瑙を高々とかかげ、
不安はこの深夜、燈明を捧げ持つ者、
不死鳥に焼かれた宵ごとの夢を、あまた支えている
だがこの夢の灰を納める骨壺もない
↩︎ - Allais, op. cit.. ↩︎
- ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)。ロマン派を代表する詩人の一人。詩以外にも、『ノートルダム・ド・パリ』(1831)や『レ・ミゼラブル』(1862)などの小説、また多くの演劇を残している。「ジン」は『東方詩集』(1829)に収められている。 ↩︎
- Daniel Gronjnowski, Aux Commencements du rire moderne. L’Esprit fumiste, Paris, Corti, 1997. ↩︎