Jeux de mots

今月のことばあそび

毎月変わるお題と文字数に合わせて、自由に自己表現を楽しむ場所

寝癖

Mio Akamatsu

わたしは毎日寝癖がつく。どうやっても寝癖がつく。

直毛ボブヘアをかれこれ数年続けているが、攻略方法はわからない。もはやわたしの寝癖はチャームポイントとして開き直っている。ああ今日もわたしの寝癖かわいい。

ふと、ルーベンスの《眠る二人の子供》(1612-13)を思い出す。東京の上野にある国立西洋美術館の常設展で出会える作品だ。すやすやと気持ちよさそうに並んで眠るのは3歳くらいの子供、2人揃ってシルクのようなブロンドの髪。

ちょっと強く引っ張ったらちぎれてしまいそう。くしゅくしゅしたりしていじったり、額からかき上げてみたり、指にその髪を絡まらせて遊びたい。柳家のあんずオイルがそのツヤツヤ髪の秘訣ですか。二人とも透明感があるガムシロップみたい、ぺろぺろしたい。寝起きでちょっと不機嫌な顔も想像できて、愛おしい。無造作な寝癖が盛大についていてほしい。

同じく国立西洋美術館で出会えるもう一つのルーベンスの作品にも目を向けたい。

《豊穣》(1630)。赤いドレスと青の布地、今話題の大阪万博と同じ色の組み合わせの衣装を纏う女性が描かれている。彼女からこぼれ落ちる果実たち。真珠で施されたシンプルな髪飾りで、柔らかい髪をまとめ上げている。ああこれが女神の嗜み、大の大人は寝癖をつけて果物を持って出歩いたりしないよな。そう言われると《モナリザ》や《ミロのビーナス》だって寝癖をつけていない。美の象徴たちが、寝癖をつけていないのだから、街にお出かけをする時くらいは髪をセットするか、と観念する。

彼女の足元にこぼれ落ちた果実を拾い上げるのは、2人の天使たち。人間の年齢にしたら6歳くらいだろうか。無造作ヘアだけど、すこし櫛を通したヘアスタイルのようにもみえる。分け目がきちんと揃っているし、流れも揃っている部分が多い。ただ、後頭部の髪の一部が跳ねているように見えるのも、愛らしい。少し大人になったとしても、やはり天使の髪はこれくらいの自由がなくては。

寝癖のままでいい天使のような自由さと、しっかりヘアセットするという女神の嗜み。そのどちらも自由に行き来できるような、自由さを持って生きたい。たとえ人間でなくてはいけなくても。

そう思いながら、私は重力に逆らって乱れまくった髪をまた押さえつける。最近は湿気がひどいのよ、日本はいよいよ梅雨だというのもあり、特にひどい。

さて、明日の寝癖も楽しみだ。


半世紀の髪(父への愛を込めて)

Miyako Ebata

髪型には流行がある。
それにもかかわらず、およそ半世紀の間同じ髪型を続ける男がいる。私の父だ。

奔流の如く移り変わるものたちに流されることなく続けてきた髪型はとくにこだわりがあるようでもなさそうだ。かと言っていつもと違うとしっくりこない、という本人にしかわからない微妙なラインがある。

フランスで活躍した画家レオナール・フジタこと藤田嗣治も切り揃えられた前髪が特徴のヘアスタイルを貫いた。
フジタの場合は渡仏後で散髪代が用意できず自分で切ったことが始まりだそうだ。
フジタと父の間にも何かしらの共通点が見出されるかもしれない…

父は、自身の父親と違い服装への関心が低く実用的なものを好む。時計は時間が正確にわかる方が良いと家中を電波時計に変えるつもりでいた。
インテリア大臣の長女にイニシアティブを握られ、その計画は頓挫する。

自分の生まれた世代よりも古いものが好きなため、同時代の流行にはいつだって乗れない、乗ろうとしない、乗り方は知っているのか。
一世代上の友人と共に友人の青春時代に人気だった歌手のコンサートへ行くこともあった。久しぶりに非常に嬉々とした父の姿を見たことを覚えている。

同じ髪型を何十年も続ける人とはどんな生態なのか、おおよそ予想がつくだろう。

朝は毎日同じ時間に起きる。アラーム音は大きい。
体操を1時間したら、世の情勢を把握するために新聞を開く。
仕事は自宅で行うので、読後は朝食を摂る。
これも毎日飽きることなく同じメニュー。
トーストは半分にハムとチーズ、もう半分にジャムを、カフェオレとバナナも一緒に。
コーヒーにこだわりはない。母と同じものを飲む。
ニュース番組を見ながら食べ終えると歯を磨く。
歯磨きは歯科医に褒められるほどの磨きぶりだ。
20分ほどかけている。健康診断のチェックシートにも見当たらない時間ではないだろうか…

髭を剃り口周りをすっきりさせたのち、ようやく髪型を整える時間に移る。
毎日同じではあるが、ポマードをしっかりと塗り櫛でとかしたら、三女から贈られた手鏡で後ろも確認し、まずまずの合格点を自身に出す。

それらが終わるとようやく始業である。
髪型を整える作業はいわば仕事の直前に行われるひとつの儀式であり、気持ちを切り替えているのだ。

家族の誰よりも長く洗面台に向かっている父に、今度会ったらフランスの音楽を紹介してみよう。キース・へリングの作品を観て「落書きか?」と尋ねてきた人間だが。


長髪について

Kazu Fujimoto

私は男性の長髪の髪型が好きだ。長髪は手入れが大変だから、自分では長くは続かなかったけれども、人が長髪をなびかせている姿を見るといつも羨ましいと感じてしまう。昔ギャツビーのCMでキムタクが、長髪を後ろに逸らすシーンがあったが、それが言わば私の原体験になっている。大学生に入りたての頃は、みんなが短髪かボブだった。しかし1年、2年経つと、自分の周りでもちらほらと長髪男子が現れた。私も真似したかったが、その時は長髪はNGだというバイトに就いていたため、自分には無縁なものとして諦めていた。しかし就活が始まると、みんな綺麗に整えられた短髪に戻り、ジェルで固められた清潔感のある髪型になって、そのまま社会に出ていくこととなった。だから私にとって長髪は、青春期の特権のように思われた。もちろん、大人になっても長髪でかっこいい人はたくさんいるけれど、社会に出る前に誰もが体験する時代、お金はないが楽しい放浪時代に許された自由の象徴のように見えた。

そういうわけだから、作家の長髪のエピソードにも目が止まってしまう。ヴィリエ・ド・リラダン1という詩人は、生涯放浪生活を貫いたような人で、その長髪も彼の特徴の一つである。彼の友人であったマラルメ2という詩人は、生前の彼の仕草を次のように報告している。私の憧れたキムタクと同じような仕草が、マラルメにかかれば、象徴的意味合いを帯びてくる。「彼の祖先たちは、彼がよくやる仕草、頭を後ろに、過去に逸らすような動きの中に見出された。くすんだ灰色の髪が広がり、彼のこんな表情が浮かんでいた。《彼らがそこに留まっているようにすること、今はそれが難しくなってきたが、やり抜いてみせる。》」ヴィリエは由緒正しい貴族の家系だったこともあり、マラルメは彼の背後に、現在の彼を形作る祖先の面影を見出している。ヴィリエに高貴な名前を授けつつも、同時に後ろ髪をひっぱるように彼をいささか縛る、この祖先の面々とヴィリエとの複雑な関係性が、ここでは髪をなびかせる姿の中に言い表されているかのようだ。

もっとも、マラルメはヴィリエの髪に象徴だけを見ていたのではない。マラルメはある4行詩の中で、こう書いている。「もし僕が色男なら、それはマンデス3のせい、もし僕にシラミがたくさんついているなら、それはヴィリエのせい」。ヴィリエの長髪は、清潔だったとは言い難いようだ。

  1. ヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de L’Isle-Adam, 1838-1889):象徴派の詩人、小説家、劇作家。短編集『残酷物語』や『未来のイヴ』などで有名。
    ↩︎
  2. ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898):象徴派の代表的な詩人。劇詩「半獣神の午後」などで有名。 ↩︎
  3. カチュール・マンデス(Catulle Mendès, 1841-1909):高踏派の詩人。女性にもてたというエピソードもある。 ↩︎